カテゴリ:硫黄島( 7 )


2007年 03月 18日

硫黄島 番外編

くらげねこさんの小笠原旅行記にTBさせていただきます。



父島ウエザーステーションから見る二見港、先代『おがさわら丸』1986年
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くらげねこさんの写真とほぼ変化無し、街の風景。
変わったのは船が二代目『おがさわら丸』になった事かなあ。


当時のおがさわら丸は航海速力20ノット(37km/h)、東京竹芝桟橋、父島二見港間を28時間で結んでいた。
午後3時に二見港に到着すると父島へのお客さんと生活物資を陸揚げ。
そして慰霊団の方を乗船させたまま硫黄島上陸用の小型船と移乗用の浮き桟橋を積み、午後6時頃硫黄島に向け出航。
硫黄島沖へは翌日未明に投錨できた。




父島境浦の沈船
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太平洋戦争の際米軍の攻撃を受け、浅瀬にのしあげ沈没を防いだ濱江丸。
この頃はまだ船の形を保っている。
船上に1本大きく木が生えているのに気がつくだろうか?



溺れそうになりながらそばまで行ってみた。
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この船の中にはサメが居るぞ!
そう脅かされていたので、おっかなびっくりの及び腰写真である。
でもそれでかえって迫力が出たかも。
潜水艦の潜望鏡から覗いているようだ(笑)



父島1番のビーチ小港海岸
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それでもまばらにしか人が居ない(笑)
GWや夏休みはもう少し人が居るはず。
個人的には酔っぱらって泳いで、もう少しで三途の川を渡る所だった思い出の海。
もう絶対無茶はしません(大汗)



おが丸のバイトは都合9航海くらいだったろうか。
ほんのちょびっと海の男になれて、いい体験が出来た。
今では船が大好きで、とにかくどんな船でもいいから乗っているだけでゴキゲン(笑)

残念ながらクジラ見物もダイビングも父島では未体験。
今度行く時はゆっくり遊んでみたいなあ。



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by falcon65 | 2007-03-18 17:05 | 硫黄島
2007年 02月 19日

硫黄島訪問記 5

62年前の今日2月19日、この砂浜にはたくさんの米軍兵士の屍が並んでいた。


1986年6月 擂鉢山山頂から見た翁浜
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3日間続いたの艦砲射撃の後、1945年2月19日午前7時45分、
米海兵第4、第5師団の兵士達を乗せた上陸用舟艇がこの浜に殺到する。
栗林将軍の水際無抵抗作戦により、日本軍は沈黙を守った。
上陸した多数の米軍兵士が、艦砲射撃で日本軍が全滅したと楽観し始めた頃、硫黄島全島の日本軍火砲が火ぶたを切った。
砂浜に釘付けとなった米軍兵士は、まるで屠殺場に放り込まれたかのように粉砕される。

映画「硫黄島からの手紙」ではその様子がリアルに描かれており、そのシーンだけでも映画を見てもらいたいと思う。
大変残酷なシーンであるが、実際にこの静かな砂浜であったことなのだ。




米軍慰霊碑の前で
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後列右が当時のボク。
記念撮影をする時、どんなポーズを取ったら良いか悩んだことを思い出す。
ピースサインをする場所でないことは確かだ。

硫黄島と書いて「いおうじま」と読むが本来は「いおうとう」と読んだ。
米軍側が「Iwo Jima」と呼称しそれが定着した硫黄島 (東京都)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




山頂から南側を見る。
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三角のトンガリ山は南硫黄島。
波ひとつないベタ凪のの海が、現代の平和を象徴しているようだ。
ボクらの足の下には、まだ故郷に帰れない日本の兵士の遺骨が、いっぱい有るのかもしれない。
そんな悲しい気持ちと、この穏やかな眺めのあまりの落差に目眩した。




擂鉢山を下り帰路につく
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カラッポのヤカンと、弁当がらが入ったビニール袋が唯一の持ち物。
このあと水無しで4キロの道のりを帰ることに不安を感じていたが、
お坊さんが乗ったマイクロバスに拾い上げてもらい事無きを得る。
地獄に仏とはこの事だと思ったが、この厳粛な場所ではそんな軽口も言えない。

ボクらはほとんど口もきかずに、窓の外を流れる景色を眺めていた。
皆何を考えていたのだろうか。




波乗りをするバイト達
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朝上陸した場所に戻ると、硫黄島に上陸することを選ばなかったバイト達が、サーフィンを楽しんでいた。

ボクがこの島から感じていた気持ちと、この風景はあまりにも離れている。
なんとも言えぬ違和感が身体を包んだ。
でもこれが今の現実。
平和の国として日本は生まれかわった。
そうなる為に本当にたくさんの人の命が失われた。



慰霊団の日程は2日間である為、その夜小笠原丸は硫黄島沖に停泊していた。
暑い一日を過ごした慰霊団の方々は、船室でゆっくり休んでいる。
ボクらは営業の終わった仕事場のレストランで酒盛り。
航海中は毎晩の事。
昼間の事をてんでにしゃべりながら杯が進む。

と、窓際にたったひとりが素っ頓狂な声を上げた。
「外見てみろ! すげーぞ!!!」

外は真っ暗なのだが、船の照明でそのまわりだけとても明るい。
その灯り目指して、無数のトビウオが集まって来た。
銀色に輝く羽を広げて、そこら中をキラキラ飛び回っている。
みんな必死に船に向かって飛んでくる。

「網でもザルでも鍋でも、掬える物なんでももってこい!」
たくさんのトビウオが船に激突してプカプカ浮いている。
その数も無数だ。時ならぬトビウオ漁が始まった。
「酒の肴は獲れたてトビウオの刺身だ」
手の届く所に浮いてるヤツを競って掬う。

そんなみんなの様子を見ながら、ボクはある感慨にとらわれていた。
帰れない日本の兵士達の魂がトビウオになったのではないか...
妻子が父母兄弟が乗っている小笠原丸めがけて、トビウオは皆飛んでくる。

-この船に乗って一緒に日本へ帰りたい-

ボクは唇を噛み締めてトビウオ達の飛翔を見つめていた。
次々と船縁に激突して息絶えていく様を...




夕日に向かって飛翔する「かっとびくん」(千葉県野島崎)
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今ボクが好きな事をして、好きなように生きていける事を感謝する。
日本という国に生まれた事を感謝する。
今の平和を感謝する。

そしてたくさんの人々が、先の大戦で命を失った事を忘れない。
今の日本は、その人々の血の上に成り立っている事を忘れない。
この記事を読まれた方も、その事をしっかり覚えていて欲しい。



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by falcon65 | 2007-02-19 23:09 | 硫黄島
2007年 02月 18日

硫黄島訪問記 4

これより前の記事を見る場合はこちらをクリック 硫黄島訪問記 



1986年6月

擂鉢山山頂付近
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ひしゃげたコンクリート製の構造物はトーチカの残骸か...


とても暑い日だった。
日差しを遮る物何一つ無い道を、ボクらは歩いた。
たくさんの汗をかく。
氷を入れたヤカンの水はすぐにお湯になり、ぞの温かい水をかわりばんこに飲む。
水が無くなっちゃうから少しづつだぞ!って、お互いに言いあいながら。



上の画像より少し左を見る
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トーチカというより雨水タンクのようにも見える


そう、ヤカンの水はあっという間に無くなった。
川も井戸もないこの島で手持ちの水が無くなるということは、極端に言えばそれだけで死を意味する。
ボクらはたかだか半日の我慢。
しかし兵士達は死ぬまで我慢...


舗装こそされていないが立派な自動車道があり、擂鉢山の麓までダラダラとおよそ2時間で着いた。
その道は擂鉢山山頂まで続く。
暑さですでにへばっているボクらは、その急な上り坂見て顔を見合わせる。
だが登るしかないのだ。
言葉少なく皆で歩き出す。




山頂
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バテバテである
たかだか2時間少々歩いただけ、それだけなのにもうみんな動かなくなった。
各自が持っている水色のビニール袋は、料理長の心づくしの弁当入れ。

こんなに明るい太陽に下、この山で、日米の兵士達が殺し合いをしたとは思えない。
またボクらが弁当を食べるのに相応しい場所とも思えない。
違和感がボクを支配した。



窪地の中には野生化したヤギがいるのだが、この画像では小さすぎて見にくい
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そう、この硫黄島訪問記の最初の記事は去年の2月18日、ちょうど1年前だ。
米軍が上陸作戦を行ったのは1945年2月19日。
ヤギのいる窪地も1945年2月18日は猛烈な砲爆撃に晒されていた。
日本の兵士達はこの擂鉢山や道中にあった陣地、そして無数の地下壕に潜っていた。


地下壕を掘るといっても削岩機やショベルカーなどの機械は無い。
すべて人力だ。
ツルハシとシャベルを握り、固い岩を砕き掘り進む。
硫化水素ガスが穴に溜るのでガスマスクを装着し、40度を越える高温高湿の息苦しい中、トンネルをひたすら掘る。
10分も作業を続けるとぶっ倒れそうになるので、次の兵士と交代、そしてまた次の兵士と交代...
そうやって固い岩を砕き、アリのように地下壕を張りめぐらし米軍の上陸に備えていた。
ヤギがのんびり草を食む景色と、あまりにも対照的だ。




山頂より北の方角を望む
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右手前に見えるのは小笠原丸。その先に小さく見えるのは北硫黄島。


そしてその先をさらに北に向かえば、日本本土にたどり着く。
たぶん兵士達が最期に振り返った方角。
その先には故郷が有り、生家が有り、妻子が父母兄弟がいる場所。
硫黄島と日本本土を遠く隔てる海、太平洋。
何としてでも、この海を越えて帰りたかったに違いない。


この日遠く日本から、妻子が父母兄弟が、その海を越えて硫黄島に来ている。
今でも島を守る兵士達の魂が、一番会いたかった人達が船に乗って来ている。
航海の安全を彼等が守ってくれたと思うのは考え過ぎだろうか。
この日の太平洋はその名の通り、鏡のように薙いで太平だった。



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by falcon65 | 2007-02-18 16:27 | 硫黄島
2007年 01月 08日

硫黄島訪問記 3

正月休みに映画「硫黄島からの手紙」を見に行った。
期待が大きすぎたせいか、見終わって少しがっくりとした。
ストーリーに関しては、それぞれ見る側の受け止め方が違うから感想は述べない。
どうしても気になったのは、旧軍の階級差による絶対的な上下関係を無視したり、
硫黄島における地下壕の過酷な生活環境が描ききれていなかった事だ。

ちょっと穴を掘れば温泉が湧くと言われた硫黄島で、地下壕内の湿度と温度は想像を絶するほど高い。
井戸、湧き水は一切無く、飲み水に欠乏し、食料も医薬品も足りない。
暗い壕内は少しのランプの灯りのみ。
壕内は硝煙と血と、糞尿と硫化水素の匂いに満ちている...
なのに映画の地下壕は広く明るい...

最近のハリウッド製戦争映画のご多分に漏れず、戦闘シーンの迫力は素晴らしい。
戦場で兵士が死にゆく様は真に迫っていると言えるだろう。
どういう事か?
兵士が、もげて、砕けて、潰れて、焼けこげる様子がリアルに描かれていた。
そう、戦場は巨大な人間破砕機...
きれいな死に方は無い。

その戦場だったのが、ここ、硫黄島なのだ。






1986年6月


上陸地点のコンクリート船。
ボロボロにはなっているが桟橋として充分機能している。
日米どちらの船か調べてみたが、資料に乏しくわからなかった。
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上陸地点の地図を添付する。
Google Mapより
画面左上「物資揚陸場」がこのコンクリート船の場所
画面を拡大していくと、砂に半分埋もれた船を見ることができる。



員数外のボクらは擂鉢山に向かって歩き出す。
振り返ると沖にブイを取る小笠原丸の姿が見えた。
海は鏡のように静かで、慰霊に訪れた方々を穏やか歓迎してくれているようだ。
地面に黄色い所があるが硫黄成分と思われる。
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小笠原丸が着いたのは硫黄島の西岸。
米軍の上陸作戦が行われた東岸の翁浜とは反対側になる。



上陸地点からの擂鉢山の眺め。
約4kmの道のりを一行は進む。
体感気温は35℃くらい...
快晴、無風。
真夏の直射日光が真上から厳しく照りつける。首筋がジリジリと痛い。
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ボクらの持ち物は氷水の入った大ヤカン1個と各自の弁当。
道中に水は無い。
また、無闇に道路以外の場所へ行かないように注意があった。
道路以外不発弾の処理を行っていないとの事。




途中、「◯◯部隊陣地跡」(名前失念)の道標があった。
車道をそれ、小径をジャングルの奥に入る。
コンクリート製の構造物が緑の中に忽然と表れた。
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日本軍のトーチカの跡。
分厚いコンクリートなのに大きく壊されている。
中にいた兵士は無傷ではいられなかっただろう。
写っている人物は小笠原丸レストラン「アラスカ」の社員さん。
名前はすっかり忘れてしまった。今はもう50歳近いはず...


トーチカの様子。
コンクリートが崩れ砲座を押しつぶしている。
大型爆弾か戦艦の砲弾でも直撃したのだろうか?
これだけ破壊されたら使用不能である。
砲は日本海軍の艦載砲にも見える。当時詳しく写真を撮らなかった事を悔やむ。
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砲口の前まで来たが、そこから先へは進めなかった。
トーチカの中へは簡単に入れそうなのだが、とても入れる場所ではない。
この場所でその頃の自分と同じ日本の若者が死んでいったと思うと、とても近づけない気持ちになった。
自分達が面白半分で中に入ることによって、安らかに眠っているであろう英霊を汚してしまう気がしたのだ。
皆で深く頭を垂れ、合掌してこの場所を離れた。



硫黄島では戦後、すべての地下壕が見つかったわけではない。
日米双方の多数の不発弾があり、その危険を無視して調査する事は出来ないからだと聞いた。
ボクらが歩いた足の下にも未発見の地下壕と、その中に閉じ込められた日本の兵士達がいたのかも知れないと思った。
あるいは壕から出て敵弾に倒れ、そのまま島の土となった兵士がこの足の下にいるのではないかと思った。
21900名余の日本軍戦死者のうち、どれだけの遺骨が国に帰る事が出来ただろうか。
遠く故郷を離れ肉親の事を想い、今なお多くの魂が彷徨っているのだろうか。




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by falcon65 | 2007-01-08 18:02 | 硫黄島
2006年 12月 29日

硫黄島訪問記 2

1986年6月

小笠原丸は夜を徹して走る。
そう言うとカッコ良いが、父島から硫黄島までは比較的近いので、航海速力は通常速力の20ノットよりだいぶ遅い。
デーゼルエンジンの爆音も心無し静かだ。
それでもまだ夜が明ける前、漆黒の闇の中、硫黄島沖に到着したらしい。


ボクは船室で眠っていたのだが、ある事で目が覚めてしまった。
匂いだ。
部屋には温泉地と同じ匂い、硫黄臭い空気が充満している。
エンジン音も止んでいた。
硫黄島に着いたようだが外は暗くてよく見えない。


だんだんと東の空が白んで来た。
硫黄島西側沖に小笠原丸は停泊している。
島影が黒いシルエットとなって、浮かび上がってくる。
風もなく波穏やかな夜明けだ。
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慰霊に訪れた方々に朝食の用意をする。
小笠原丸のレストラン「アラスカ」のホールがボクの仕事場。
食事をテーブルにセットし、お客様を案内して、食器を下げる。
全員はいっぺんに食べられないので、確か3回に分けて座っていただいたと思う。
参加者はおおむね高齢者の方々。
夫や兄弟を此の島の戦いで亡くされた方、戦前此の島で暮らしていた方。
この時点で戦後41年、長い年月が経っている。


レストランに付属するスナックで、ビールを飲みに来た戦前北硫黄島に住んでいた方のお話を聞けた。
小さな村落で何も無い所だったけど、海が綺麗で魚でも貝でも伊勢海老でも、なんでも獲り放題の天国みたいな所だった。
いつか帰りたいと思っているんだけど...
もちろんその方も当時60代、今お元気なら80歳を越えているはず。
その願いはまだ叶えられていない。



食事のあと片付けが終わり、船長の許可を得て待機する。
慰霊団の方々の上陸後、乗り組みのバイト達がボートにのる。
辺り一面鼻を突く硫黄の匂いで溢れているが、逃れる事は出来ない。
島のあちこちから蒸気が上がり、ここは火山島である事を強く意識する。
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朽ちかけた船に近づく。
驚いた事に鉄ではなくコンクリートで出来た船だ。
カチカチ山の泥の船を連想する。
戦争末期、鉄鋼不足からコンクリートで船を造ったと聞いていたが...
ここが港の無い硫黄島の船着き場代わりである。
コンクリート船である事が桟橋の代用として、戦後41年経った後も役に立っている。
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上陸した慰霊団の方々は自衛隊の車両で移動していった。
員数外のボクたちはバイトは自分の足で歩くしかない。
皆行きたい所は決まっている。
擂鉢山だ。
山頂まで登れるか...
道の様子は不明だし、時間が足りるのかもわからない。
でも歩こう。




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by falcon65 | 2006-12-29 19:21 | 硫黄島
2006年 12月 24日

硫黄島訪問記 1

以前にこんな記事を書かせてもらった。
2006年2月18日 知っていますか?
20年前に訪れた硫黄島に関する記事。
もっとたくさん書きたい事があった。

大掃除で自宅のフィルムを整理していたら、古いポジが出て来た。
『硫黄島からの手紙』が公開され今は硫黄島の認知度も高い。
少ないが古いポジを紹介しながら、もう少し書き足してみたい。



1986年6月
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いまなお米軍を迎え撃つべく砲口は虚空を睨む。

10センチ加濃砲か、15センチ榴弾砲か、重砲だ。
ジャングルの奥、ぐしゃぐしゃに潰れたコンクリート製トーチカ、苔むす陣地、赤く錆びた砲、重い空気。
ここに立ち、言葉が無い。

死力を尽くし闘った日本兵達の墓標だ。
多くが招集された普通の市民。
若く精強な多くの兵はすでに南方で散り、40代の老兵や10代の若すぎる人々。
日本に残る家族を思い、国家の命令に従い、ここで死んだ。




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硫黄島沖に仮泊する小笠原丸より擂鉢山を望む。ボートは上陸用の物。



この頃ボクは小笠原航路の貨客船「小笠原丸」でバイトをしていた。
年に一度、厚生省による硫黄島墓参の航海がある。
参加資格は硫黄島旧島民、硫黄島戦戦没者遺族。
その参加者達を硫黄島まで送るのが小笠原丸の仕事。
資格外ながら硫黄島上陸を果たせたのは、当時の船長の計らい。
「希望者は上陸可」である。



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波打ち際から上がる蒸気、鼻を突く硫黄の強い匂いが辺りに漂う。


小笠原丸は午前10時竹芝桟橋を出航。
翌日午後2時、28時間かけて小笠原諸島父島二見港に入港。
一般乗船客及び、島への生活物資を揚陸。
夕方再び出航、硫黄島に向かう。
翌日早朝、硫黄島到着予定だ。



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by falcon65 | 2006-12-24 18:09 | 硫黄島
2006年 02月 18日

知ってますか?

東京都小笠原村硫黄島
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西側海上より擂鉢山を望む

1945年2月19日、つまり61年前の明日、米軍が東海岸よりこの島に上陸した。
地下に潜った日本の兵士達は圧倒的な米軍に対して激しく抵抗する。
此の山、擂鉢山も61年前の今日は米軍の激しい砲爆撃に晒されていた。

組織的な日本軍の抵抗は3月半ばに終わるが、すべての日本兵が掃討される6月末まで戦闘は続いた。
日本側戦死者21900名余
米軍側戦死傷者28686名

幾多の太平洋諸島の激戦地の中で、この島ほど日本人に知られていない所は無い。
戦後アメリカの統治下にあり、日本側に返還された後も戦争の前まで島で暮らしていた島民は帰る事を許されなかった。
今現在も一般の人はこの島に立ち入る事は出来ない。
一般の生活とは無縁の島。
そのため今やこの島を思い出す人は少ないのだ。

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朽ちかけたコンクリート製の船が桟橋として使われていた。
慰霊の為此の島を訪れる旧島民の方や、戦死者遺族の方々はここから島へ上陸する。





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海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば 草生(くさむ)す屍

戦を忘れてはならない。
戦は繰り返してはならない。

撮影1986年6月 
Nikon FE 50mmF1.4 Kodak EN フィルムスキャン PSレベル補正

by falcon65 | 2006-02-18 20:34 | 硫黄島